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トップページ > 経営倫理情報 > あの日、あの時…経営倫理士講座 > 2012年9月19日配信記事

「経営倫理士」受講との出会いからチャレンジ精神、身につける

明石広報事務所
経営倫理士(第1期)明石 雅史さん

 手元に1冊の冊子がある。Business Ethics 平成11年(1999年)4月5日に発行された、経営倫理実践普及協議会の会報第1号である。

 私が経営倫理実践講座の厳しい?研修を修了して、経営倫理士として認定された平成10年から、もう14年が過ぎた。当時の思い出を書いてほしいとの注文を受けたが、さすがに記憶のかなたで、霞がかかってよく思い出せない。『そうだ!』と思いついて古い書類(当然アナログだが)を引っ張り出した。出てきたのが認定書とこの冊子だった。冊子の冒頭に、故水谷雅一会長の言葉『企業、行政の不詳事や事件などを引き金として、近年、経営倫理を問う声が・・』中略 『内外の先進的理論、ベスト・プラクティスの学習を通して、我が国企業、諸団体の倫理体質の向上に資するための、開かれた場を提供することをも目的とします』があった。

 CSR元年と言われる2003年に先立つこと6年。コンプライアンスやガバナンスといった用語も浸透していない時代だった。数回の講座、宿題の論文提出そして面接。研修の場所も不定であちこち渡り歩いた。その中では、セクハラの講座が印象深かった。言葉では知っていたが、具体的事例(確かA企業の社員旅行の宴会後の女湯覗き事件だったと思う)では、皆な初めてで、『ああだ。こうだ』と議論が沸騰したような覚えがある。そのあと、会社に帰り、部員たちに『こんなことがセクハラだ』と、専門家面して話したものだった。

 1970年に大学(経済学部)卒業後、ユニチカ、象印マホービン(1981年〜)ポラスグループ(1995年〜2009年)のビジネスマン時代のほとんどを広報・経営企画と経営サイドにどっぷり浸かっていた、そんな私が、講座になんなく溶け込み、水が浸透するように知識が染み込んでいったのには、いくつかの伏線があった。

 その一つは、大学時代。大学闘争の中、まともに勉強しなかったが、3年生の半年間、資本論のゼミで学んだマルクスの理論がスタートだった。そして、広報でジャーナリストの方々から言われた『会社人でなく、社会人たれ!』『世間の常識が会社の非常識』が、高度成長期の企業人としては異端児に育っていった。そして、象印時代『部落差別はじめ人権問題に取り組む企業の集団=大阪同企連』に出向した。今夏のようなものすごい暑さ(大阪の暑さは本当に蒸し暑い)のなか、通った解放大学で、人権=民族、マイノリティ・女性・障がい者を学びフィールドワークで実践したことが、経営倫理に、す〜っと入れた主要因だった。

 ポラスグループに変わって数年たった時、ダイヤモンド国際研究所の小熊社長から『研究所の会員にならないか』とのお誘いを受けた。広報の駆け出しの頃から公私ともにお世話になった小熊さんからの提案で、社長を懸命に口説いて会員になった。その折『経営倫理実践講座』が始まるという話を聞きつけ、すぐさま申し込んだ。1期生の言葉が決め手であった。因みに、ユニチカも合併後の1期生だった。実は、ポラスグループでは住宅メーカーとして『宅建主任』『建築士』などの資格を持つことが社員に必須で、何も持たない私には社長が『資格のないことは、棚にあげて、明石君、何か言わないか』と常にひやかされていたので、経営倫理士、『当時日本には有資格者がなく、これはいける』と思ったのだ。かなり、いいかげんさから始まったので。その後、無事、資格をとったとき、社長が自分のことのように喜んでくれたものだった。

 広報と併せて、地域貢献とかメセナを担当したが、その時以外には、この資格を活かせることは難しかった。そんなある日、広報関係者の集まりで、水尾駿河台大学教授に声をかけられた。『明石さん、経営倫理士の資格を持っていたね。経営倫理学会のCSR研究部会に参加しないか?』だった。2004年だった。そして、月1回の例会に参加し、CSRを学んでいった。2009年にポラスグループを役員定年で退職したあと、広報学会とともにCSR研究部会が私の生活の主柱になった。つい、怠惰な生活に陥りがちなのを、学者先生や企業のCSR担当者そして学び舎で日々所陣している院生達から刺激を受けている。また、ポラスグループで経験した地域貢献=南越谷阿波踊りや理念経営とその実践活動は、大きな財産になっている。

 前期高齢者になった今も、新しいことに「チャレンジ」できているのは、経営倫理士との出会いからだった。

2012年09月19日配信


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